県奨励賞・市最優秀賞                   
   ヒロシマの二つの顔                         
                                 丹波市立柏原中学1年  八木 将輝

 1945年8月6日8時15分、アメリカのB29エノラゲイ号によって、ヒロシマに人類初となる原子爆弾が投下された。 今から65年前のことである。僕はこの夏、そのヒロシマを訪れた。
  原爆の記憶を今に伝える多くの場所の中で、まず僕は、爆心地から160メートルにある袋町小学校を訪れた。その袋町小学校の階段には「お願い。○○○○を探しています。○○○○は△△の所へきてください。」という家族の安否を確かめるために書かれた文字が奇跡的に残されている。
  今の時代、GPSや携帯電話などですぐに安否を確認できるが、当時、そんな機器はない。焼け野原に多くの死体がころがる中、家族を一心に探す人々の必死の思いが、その文字からうかがえる。「土井・・・」と書きかけて、階段の低い位置にもう一度書き直した文字は、土井佑子さんの身長を考慮した親の思いであると、説明を受けた。ここはもともと黒板だったのではなく校舎が焼けたすすによってできた黒い壁である。そんな状況の中、袋町小学校の児童はほぼ即死であった。佑子さんは親に会えないまま亡くなったそうだ。それを聞いて、改めて階段の文字を見た。ぎゅうと胸が苦しくなった。
  次に原爆で倒れなかったビルの一つである日本銀行に行った。実はこの銀行を、僕は小学校2年生の時に訪れている。その時は、戦争のことをあまり知らず。新幹線に乗るのが楽しみにやって来たのだが、今回はまったく気持ちが違う。楽しい気持ちなどなく、何となく緊張すらしていた。あれからたくさん学校で平和について学んだからだ。学徒動員で亡くなった多くの生徒と同じ年齢になったということも、ヒロシマの印象をかえてのかもしれない。原爆ドーム、資料館、被爆アオギリの木、原爆の子の像、たくさんの慰霊碑・・・。様々なものを見、それぞれに残された戦争の記憶を訪ね歩いた。その中で最も実感したことは、今は広い平和公園 となっているが、原爆投下前までは、普通に民家や商店が並ぶ、街であったということだ。街がそのまま消え、公園となってしまっている。誰がこんな公園になることを望んだだろう。僕の住む街を思いうかべながら、全滅してしまった街を思うと、本当に悲しい。
  しかし、ヒロシマには戦争に関係するもう一つの顔がある。それは、地図にない島、大久野島だ。別名、毒ガス島・・・。当時日本は軍の特別な施設を、地図からハサミで切り取ったように消してしまっていた。大久野島も地図から消された軍の重要な施設の一つだ。この島では、当時、イペリットなど非常に強い毒ガスを作っていた。なぜ地図から消したのかというと理由は二つある。ひとつは大久野島が空襲されたら何万トンという毒ガスが散らばり大変な被害を受けるからだ。もう一つ重要な理由がある。それは、国際社会で「毒ガスは使用しない」という条約に日本もサインをしていたからだ。原子爆弾を投下したアメリカも許されないが、秘密で毒ガスを製造し、中国大陸で使用していた日本の行為も決して許されるものではない。
激しい憤りを覚えた。国際法を犯し、非人道的な兵器を使用し、強いものが弱いものを支配する民族間の差別・・・、戦争は本当に醜いものであると教えられた旅であった。
 瀬戸内の美しい風景の中に大久野島は今もひっそりと存在している。しかし、島のあちこちに、敗戦後、急いでとりこわされた軍の施設跡や毒ガス貯蔵庫跡などの不気味なコンクリートの残骸があり、軍の要塞であった事実を必死に隠そうとしている。
  島にたくさん生息している野生のうさぎも、実は毒ガスに深く関係がある。製造した毒ガスの威力を確かめる実験体として島に運び込まれたのがうさぎなのだ。それが敗戦後繁殖して、島中うさぎだらけになった。島にある毒ガス資料館で、僕はさらにびっくりした。それは、僕と同じくらいの歳の子ども達が毒ガス島で働いていたことである。敗戦の色が濃くなると、このような秘密の施設にまで子ども達が送り込まれ、危険な仕事をさせられていたかと思うと悲しくなった。
  今は平和な日本になったが、同じ過ちを繰り返さないためにも、原爆の事実も毒ガス島の事実も・・・、二つの顔を持つヒロシマをしっかり受け止めなければならないと思う。ヒロシマを案内してくださった平和ガイドの言われた言葉・・「昔の人は正しいことを教えられなかったから、間違っていることに気づけなかった。あなたたちはしっかり勉強しなさい。間違っていることを見ぬける力をつけなさい。正しいことを実践する力をつけなさい。」
 平和な日本や世界を造っていくために、学び続けることが、これからを生きる僕たちの大切な使命だと教えられた旅だった。