平成20年度受賞作品
  県優秀賞・市最優秀賞
          わたしの思うユニバーサル社会         篠山市西紀中学校1年
                                      
 私の父は目が見えません。生まれつき目が悪かったけれど、だんだん見えなくなってきたそうです。
今では、「眼前手動弁」といってすぐ目の前で動かす手の影しか見えません。家の近くや、よく知っている場所では白杖を持たずに、スイスイ歩いています。けれど、見えていて歩いている訳ではありません。地図や段差などを覚えていて歩いています。だから、溝のふたが空いていたり、工事中だったり、荷物が置いてあるなどのいつもと違う状況の時には、ぶっかったり、はまったりして怪我をしてしまいます。でも、そんな事は周りの人には分かりません。
 地区の秋祭のときには、妹がみこしの乗り子に選ばれました。妹は女の子なので父が「乗り子年番」をすることになりました。「乗り子年番」という役目は、祭りの間中、乗り子の世話をして、移動の時は必ず肩車をします。もしもの事故があってはいけないので、あらかじめ特に危険な神社の階段の数を数えたり、階段の上り下りの練習をしに行っていました。そのかいあって祭りは、何事もなく無事に終えることができました。周りの人が知らない努力があるからなのです。 
 父があまりにも普通に生活するので私は小学5年生の頃、本当は見えているんじゃないかと疑っていました。でも、目の前の机の上にある水筒が分からなく倒してしまったり、道の段差が分からないなどのことから、「本当に見えていないんだ。」と思うようになりました。
 父の友達に車椅子のおじさんがいます。首の怪我をして、お医者さんに「一生、車いすから降りられない。」と言われたけど、自分で一生懸命ベットの上でリハビリをして、物を持ってつかまり立ちまで出来るようになったそうです。私は「一生、車いすから降りられない。」と言われても、あきらめなかった、努力されたという事がとてもすごい!と思いました。私だったら、もう歩けないんだ・・・。そこで終わってしまっていると思います。それをあきらめずにリハビリされたというのが素晴らしいことだと思います。さらに、車いすに乗っているけど、畑仕事もできます。車いすから降りて、手で動きながら仕事をされているとき、蜂から逃げられず、刺されてしまったそうです。「とてもたくさんの苦労をされているな。」と思いました。釣り池のそうじも自分でされるそうです。 
 理容師をされていて、車も運転されるけど、耳の聞こえないおじさんもおられます。耳は聞こえないけど、少しは話されます。話す相手が手話を使えなくても、口の動きを見てコミュニケーションをとります。このおじさんも少しでも話せるように子供の頃、目の前にろうそくをたてて、「あ、い、う、え、お」と言いながら、ろうそくの火の揺れ方で息の使い方を練習されたそうです。一見、何でもできるように思うけれど、一番大事な命を守る「非常ベル」や「災害時緊急放送」を聞いて避難することができません。
 こんなエピソードを父に聞いたことがあります。昔、盲学校とろう学校の寮が一つになった建物で火事があったそうです。はじめに、この火事に気がついたのは、視覚障害者の生徒さんだったそうです。「パチパチ」という音と物の焦げる臭いで飛び起きた生徒は廊下に飛び出て火事が起こっていることを大声で叫びました。この大声に気がついた視覚障害者の生徒さん達はすぐ廊下に飛び出し、おたがいロープ(視覚障害者の人たちは、緊急避難時に等間隔に結び目のついたロープを手に持ち、つながって避難されるそうです。)を手に「パチパチ」音がしない方へ、またけむりの臭いのしない方へと真っ暗な廊下を無事避難されたそうです。そして、弱視者が数名、ろうあの生徒さん達が寝ている部屋に火事を知らせにまわりました。しかし、普段から見えないことをからかっていた数名のろうあの生徒さん達はこれを“仕返し”と思い避難せず命を落とされたそうです。 
 このような出来事もあって、現在では光や振動で緊急なことを知らせるシステムや聴導犬が考案されています。でも、まだまだ完全な自立はできていません。 
 見た目や人から聞いた話だけでその人を判断せず、健常者、障害者、性別や年齢に関わらず、自分で個人を理解すること、また、そういう勉強をしていく事が「ユニバーサル社会」を進めていく一歩になると思います。そして、障害のある人も自分から社会に出ていくことによって少しずつ理解をしてもらえるようになるんじゃないでしょうか? そこで、まずは自分から変わっていかないといけません。進んでボランティア活動などに参加していこうと思います